今見たら、どうも、満月は今日みたいですね・・・自分のサイトに月の動きをアップしているのに・・すみませ〜ん。細かいことがどうも苦手ですし、アメリカの情報を見るクセがあり、時差があって日付が変わったりするのに、つい、間違えます。けれど、あまり神経質になる必要もありません。満月はその前後に影響を持ちますから・・・けれど、せっかく(?)一日間違えたので、今日も満月について書こうと思っています。
今日は、ひとが日常であまり話したがらない「死」について。なぜなら・・・昨日も書きましたが、牡牛座の満月というのは、牡牛座の反対位置にある蠍座の太陽によって照らされているからです。そして蠍座が現すもののひとつが「死」です。牡牛座と蠍座が嫉妬や執着心をも現すと書きましたが、死への恐れが執着心を生むのです。要するに、動物のように死に対して客観的意識がないと、生や性やモノに執着もしませんし、逆に自殺することもないわけです。
ところで最近読んだ本に、池田晶子さんという哲学者の本があります。実は、以前に彼女の書くものとわたしの書いたり言ったりすることが同じだ、とある人に言われたことがあったのですが、あまり信じず読んでいなかったのですが、妹も読んで面白かったというので、少し読んでみました。
わたしは、彼女とわたしが同じことを言っているとは感じませんでした。しかし、似ているところもあると思いました。共通点としては、死と生について常に考えていることと(しかし、これは哲学者の基本)、生に対してこのひともわたしもあまり執着心がなく、ある種の覚悟がある、という点かも知れません。わたしは、精神性あるいは精神社会を切り離している医学や科学や哲学といった「学問」というものを全般的に疑っています。けれど、哲学者の彼女の持つ客観的理論に、なるほど、とうなづくことがひとつありました。
そこには、こう書いてあったのです。
自殺するひとというのは、生きていることが辛いから死のうと考える。しかし、死んだら楽になるという保証はどこにもないのだ。なぜなら、死んだ状態のことを誰も知らないからだ。知らないことを信じるのはばからしい。この理論は、非常に単純明快である。しかし、単純なことほどひとはなかなか気付かない。
確かにその通りだな、と思いました。
ただ、わたしは死にたいというか、生きていたくないと考えた時期が、人生に一度だけあり、その時期、生と死について、とことん考えました。しかしわたしも結局、自分で死ぬことはばからしいだけではなく、非常に尊大な行為である、と考え至り、自分で自分を殺すことは止めたのでした。
その時期がいつだったか・・・日本に戻ってきて時間がたっても相変わらずなじめず、そして、世界の情勢がどんどん暗くなる中、なんで世の中のひとはみんなバカなんだろう、と思っていたころです。あほらしくてやっていられない。殺し合いをしてなんになる。ひとをだましてなんになる。金、金っていうけれど、金なんて人間の作ったものでたいしたものじゃない。ニッポン一番っていうけれど外国に住んだこともないのになんでわかる。だいたい、順位なんてつけるのは他国に対して失礼だ。認められたい認められたいっていうけれど、ひとに認められてなんになる。地球を守ろうなんて言うけれど、地球は守るもんなんかじゃない。んなことも分からねえのか。こんな世の中で生きていたってイライラするし、生きにくいし、孤独だし、ガッカリするだけ。生きているなんて嫌だ。
これが、正直な気持ちでした。確か、こもりきって2年くらいほとんど誰とも話さなかったと思います。ちょうど、このブログを書き始める前ですから、う〜ん、4年くらい前でしょうか。庭を見つめ、樹の下で自分の肉体が朽ち果て、内蔵とか肉とか目玉とかは犬や鳥なんかに食べられ、残りの骨とかいろいろが大地に腐ってひとつになってゆきそれが栄養になって樹が生い茂る・・・そんなことを思い描いて過ごしていました。
その頃は、別れた前夫とまだ同居しており、彼が仕事に朝でかけて夜帰ってくると、朝出かけたときとわたしが全く同じ姿勢でソファに横たわっているものだから、目を丸くしていました。よくもまぁ、そう、同じ格好でいられるものだ・・・!いえ、トイレにも立つし、一応家事や食事もするから、少しは動くのですが、完全に死と思索の世界に入っていましたから、ほとんど一日同じ姿勢でも別に苦痛でもなかったのです。
そして、じ〜っと考え抜いて分かったのです。
自分で自分を殺そうというのは尊大であり、傲慢である。
地球も、自分も、自分で作ったものではないからです。自分で作ったものじゃないものを、勝手に壊したり殺したりするのは、傲慢です。ひとは、自分は自分で作るものだとか、自分の子供は自分が作ったものだ、と勘違いしますが、そうではありません。自分で自分や子供が作れるんだったら・・・そりゃあ、世の中こんなじゃないですよね。
だいたい、自分で作れるんだったら、わたしはとっくに子供を生んでいます。その子は、わたしに反抗しないでしょう。眉目秀麗で、とお〜っても親思いで、わたしと馬も合い、優しくて、手がかからなくて・・・しかし、そんなこと十中百九ないのです。人間は、地球と同じで自然の一部ですから、思い通りになんてなりません。こっちが真剣にテレビ観てるときに限って泣くだろうし、お腹が空けば暴れるだろうし、いろいろ悪さもするだろうし・・・そう、自分自身も含めて自分でどうしようもありません。なるんだったら、誰が好き好んでしわくちゃばあさんになるものですか・・・(笑)
地球も同じです。地球は、われわれ人類がこの星に誕生する何十億年も前から存在していて、わたしたちの手におえるものではありません。地球を守るんじゃなくって、自分たちの命を守るために、自分たちの生息できる環境を自分たちの手で破壊しないようにするだけのことです。ま、死にたかったら破壊してもなんということはないでしょうけれど・・自覚と覚悟が必要でしょう。絶滅のときになってみじめに慌てないように。そう、人間が生息できる環境を大破壊しようが、原子爆弾100回落とそうが、人類が絶滅しようが、地球は地球の寿命が尽きるまで存在しつづけるわけですから・・。人間が守るのは人間の生息環境であり、生きているところを尊重し大切にするだけのことであり、地球を「守る」ことではないのは、ひとの命のサイクルという運命を変えられないのと同じことなのです。(それにしても、いったい「なに」から地球を守るのでしょうか??)
な〜んだ、と、わたしは突然、死にたいモードから抜け出しました。自分の命を自分の思い通りにしよう、と考えること自体が神をも畏れない行為であり、自分の命を自分のものだと思うことと、地球は自分たちで守れると思うことは、同等にバカで尊大だ・・・とそのとき、ハッキリと気付いたのです。
晴天の霹靂というか、なんというか・・・それから、わたしは謙虚になる大切さの本当の意味を知ったのでした。
死にたいひとには、それぞれいろいろ事情があるだろうと思います。人生なんて思い通りにはゆきませんから、思わぬことや、嫌なことや、悲しいことや、苦しいことが起こります。ときには、バンバン起こります(ホントに・・苦笑)けれど、それから逃げたところで、もっとひどい目にあうだけだと、わたしは経験からも知っています。そして、池田さんの言うように、自殺したところで、死んだらホントに楽になるかなんて、決してわたしたち脳みその30パーセントも使っていない人間様には分からないのです。(わたしの「記憶」から言うと、下手な死に方をすると、生まれ変わったときに苦しい思いをします。このことは、池田さんはもう亡くなっているので、この世でお話しできないのが残念です。)
わたしはもう、生きていてもつまんないな、とも、死にたいとも思わなくなりました。自分なりに「水が美味しい」と思えるよう日々を生きています。そして、いつか、死ぬときが来たら死ぬだけです。
ちょうどこのブログを書こうと思っていたら、テレビニュースで、難病を抱えた息子を殺した女性が、息子を殺して何年かたったつい最近、自分も夫に殺してもらったというニュースを聞きました。その女性は、夫のことを考える余裕もなかったのでしょう。苦しんでいる人間というのは、自分の苦しみだけが大切になり、ひとのことを考えなくなります。自分が息子を殺して苦しかったのだから、夫も同じ思いをする、いや、もしかするともっと辛くなるかも知れないのは、分かって自然の理なのですが。ひとというのは悲しいかな、手前勝手で尊大で、そして実にバカな生き物だということを、このニュースは改めて物語っていると思います。
命というのは、尊いからでもなく、家族や国家のためでもなく、ただ、あるから、苦しかろうがどうであろうが生きなくてはならない。それだけのことであり、忍耐と謙虚さが必要である。
このことをなかなか、特に現実と向かい合わずに育ってしまう現代の人間は学べないのだと思います。そして、死や苦痛への恐怖や無知が、ひとを大量殺人=戦争へと、領土争いへと、お金へと、セックスや薬物や地位への依存症へと、受験戦争へと、権力争いへと、日本国だけでも毎日平均80人以上の自殺へと導いているのだな、と蠍座の太陽(死、暴力、権力欲)と牡牛座の月(快楽、執着、贅沢)の下で改めて思うのです。
この満月を境目に急激に寒くなりました。今夜の東京は10度以下。外では冷たい雨がふり、風がうなっています。夜が深いせいか、つい、長いブログとなりました。あなたは、死について、そして生きることについて、なにを考えているでしょうか。
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