なにかに縛られるのが苦手である。通院生活が終わって、なにが嬉しいかというと自由なことだ。時間に制限されるのがなんと言っても辛かった。なので、どこかに「必ず行かなくてはならない」というのがなくなって、体もこころも開放されている。
子供のころからそうだった。逆をかえせば、責任感が強すぎるのもあるが、なにかを「しなければならない」となると途端に体が緊張した。小学校から高校まで「遅刻の女王」と呼ばれた。ずっと、自由ばかり追い求める子どもだったので、小学校3年でひとりで家出はするし、とにかく、自分の風を追い求めていた。高校に至っては、全校集会で全校の80名ほどの教師と1200名以上の全校生徒の前で「わたしは、先生方の好みの女の子になるつもりはありませんので、服装や髪型に関する校則は守るつもりはありません。」と公言し、実行するような子だった。
15才の頭で必死に出した結論だった。なぜ、前髪何センチまでと決められるのか。好きなソックスがはけないのか。なぜ、人が決めた服を来て行かなくてはならないのか。そうか、先生たちが「これが良い子」「可愛い子」と考えるものに、わたしたちは沿うことになっているんだ・・。そうして、生徒の意見を交わす全校集会とは名ばかりで、誰も自分の意見を言わない静まりかえった講堂で、ハイ、と手を挙げ、マイクの前に立ち、自分の頭で考えたことを言ったのだ。「一生懸命考えましたが、要するに、このような校則を守れ、ということは、先生方の好みの女の子になれ、ということですよね・・。わたしは先生方の好みの女の子になるつもりはありません。」
どうなったか?一瞬、し〜〜ん、と静かになり、生徒たちを囲むようにして机についていた教師達が一斉に爆笑した。こんな妙な生徒は250年の学校開校の歴史以来、珍しい。そう言われた。しかし、お陰でわたしは好きな恰好をして行くことができた。母親は見るたびに髪がクルクルになったりするわたしに、卒倒し、ヒステリー状態だったけれど(可哀想に・・笑)。
それでも、わたしは封建的な町の、封建的な教育と、封建的な家庭環境になじまず、とうとうアメリカ送りとなった。左遷された、と内心思った(笑)。NYなんて、どこにあるかも知らなかったし、行くつもりもなかったからだ。しかし、NYで辿り着いた学校は、恐ろしく開放的な学校だった。校則?そんなものはなかった。服装?黒人も白人もいるところで、髪の色だとか、パーマがどうだとか、次元の違う話しだった。みんな違う髪質なのだから、そんなことは話題にもならない。それどころではなく、裸で歩いても文句は言われなかった。実際、朝、目を覚ましたら、クラスメートの男の子の股間がゆらゆら目の前で揺れている、というような状況は一度や二度ではなかった。いや、寝起きを襲われたのではない。ただ、裸で歩く人たちがいたので、見たくもないものを見せられただけだ。
好きに生きてきた、と思っていた自分のイメージはことごとく崩れ去った。服装から食べるものから生活態度まですべて見直すこととなった。とにかくいろいろな人がいたし、いろいろなことがあった。そして、一番衝撃だったのは、あるクラスの集会のときである。集会の趣旨も内容も忘れた。ただ、ひとりひとりが、ある課題について意見を述べる、ということだった。わたしは、得意のことのはずだった・・・。ところが、わたしの番が来たら、途端に喋れなくなった。お腹が震えて、言葉にならなかった。極度の緊張からだった。
なにに一番驚いたか、というと、そういう自分に、である。1200人の前でマイクを持って平気で意見を言った自分が、たかだか10人くらいのミーティングで、好きに自分の意見を述べよ、と言われたら、喋れなかったのである。声が震えた。多分、適当にごまかしてなにか言ったような記憶があるが、あの時の緊張感と自分への衝撃だけは忘れられない。震えるお腹と、射していた陽のひかりの色、そして座っていた椅子をありありと思い浮かべることができる。あれが、わたしの本当の自由への第一歩だったのだ。
そう、その時わたしは知った。わたしは自由になんか生きていなかった。校則や、小さな町の人々の目や、家族の小言や、社会の決まり事に「反論」していただけだった。自由などではない。要するに、何かに対して文句を言い、それと反対のことを言ったり、反抗的な態度をとる、というのは、結局は、それらに頼っている、ということだったのだ、と。そして、自由の恐ろしさを知った。なにも自分を縛るもののないところで、自分の本当を知り、それを外に発する、というのは、厳しいことである。勇気のいることである。責任はすべて自分に返ってくるのだ。反抗できる相手がいないのだ。自分ひとりで立つのだ。
先日、リハビリ最後の日に甘味処に寄って帰ったことは前にも書いたが、隣りの席の男性は、60前くらいの穏やかで素敵な感じの人だった。その人が静かに言った。
「今日は、会社をサボっているんです。こんなこと、したことありません。でも、桜を見たいと思ったのです。ゆったり時間を過ごすというのも大切だと思いましてね。でもね、勇気がいるんですよ。流れにのって忙しくしているほうがどれだけ楽か。」
自嘲するように、照れたように、少し笑った。
きっと、定年を前にしていろいろと考えているのだろう。長い人生を流れの中で一生懸命歩いて生きて、ふと立ち止まっているのだろう。本当の勇気について、そして自由の恐ろしさについて。仕事や家族への責任という鎖から解き放たれる時を、そして、生きるということから解き放たれる時を、遠くない将来に見据え考え始めたのだろう。人は開放されたときに初めて、自分の不自由さと自由の本当の意味について知るのだ。わたしは、黙って耳を傾けうなずいた。
「お陰さまで、楽しいひとときでした。」
そういって、男性はカメラを小脇に抱えて立ち上がった。きっと、桜の写真を納めて家族や同僚に見せるのだろう。
今日、暫定税率が差し控えになった。そのまま現状維持ということになったのだ。暫定、などと言う言葉と状況で、結局は高い税率を維持することになだれ込むようにしてしまう政府の相変わらずの手法に苛立ちを覚える。が、それに対して、民衆は、ガソリンの値段のことばかりが気になるようで、テレビで見るガソリンスタンドと車所有者たちは、値段のことに意見が終始している。政府はと言えば「環境問題から考えても、今、ガソリンの税率を下げるのは時代に逆行する」などと言っている。そんなら、最初から暫定ではなく、きちんとそう言って税率を上げれば良かったのに、選挙の票数稼ぎに暫定にしていたのならあんまりにも姑息である、とわたしは思う。いやそうではなく、今ある経済状況を見越すことができなかったので暫定としたのだったら、それは政府の政治手腕が低かった、ということである。イラク戦争が始まった時点で、多くの知識人、そして、意識ある人々は、この戦争は長引きアメリカの経済状況は悪化し、世界経済の先行きは不安定になるだろう、とすでに予測していたのだから。
しかし、テレビの一般大衆のコメントはガソリン代のことと自分の生活のことだけである。だれも、政治のおそまつさと不誠実さにはコメントしない。どこにも抗議集会も起こらない。また、同じようなことが起きると集会やデモが起こるギニアやチベットなどの国々をみて「おぉ、怖い」というふうな反応をするのは、戒律や階級制度に長い間縛られ、自分の意見を持つことを禁じられてきているこの国のしこりのようなものなのかも知れない。わたし自身も身をもって、自分の意見を持ち、それを言うことの難しさを知っている。そして、階級社会を生きてきた日本人にとって、政治が身近なものでもないことも理解できる。しかし、このままではどうなるのだろう・・ごうごうと風の唸る今日の青い空を見ながら先行きを思った。
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