そういえば、今日の午後、金についてこうも思いました。それを、思い出したので書きます。
金でひとの行動やモノの価値をはかろうとするひとは、基本的に愛を信じられない、または、愛を知らないひとだと思ったのです。そう、愛があれば、なにかを誰かにしてあげても、誰かになにかをあげても、見返りは求めないはずです。または、ひとにはこころがあるから、なにかをしてもらって、ありがたいと思ったら、相手にもして返そうと思います。だから、持ちつ持たれつになるはず。そして、愛というのは、自分にとって良いことは、他人にとっても良いことであり、他人にとって良いことは自分にとっても良いことだ、と認識していることで、ひいて言えば、自分にとってなにが良いことかを知っていることが、愛だと思うのです。
しかし・・・それがないと「家建てたから3000万ちょうだい」ってなるわけですよね。なぜ、見返りがいるのか。だって、見返りがなかった生きてゆけないじゃん、と言う声が聞こえてきそうです。でもね・・思いません?みんな自分で自立していて、満足に食べていて、ひとにはなにかをしてあげたいという気持ちですればいいんだ、って。できなきゃ、やらなきゃいいのです。
お腹が空いたら川でサケをとって食べ、星が出たら星を眺め、寒かったら衣服を作って着て、眠くなったら眠り、そうやって生きていれば、見返りなんていらないですよね。必要なのは、愛と天からの恵みだけです。しかも、愛も天も見返りは求めません。けれど、つい人間は求める。欲が出たり、愛が欠乏していたりするとそうなるのだと思います。(愛も欲も両方、牡牛座)
それから、自分がこの世にいる意味がわからないと、自分の「価値」というものをひとは知りたくなると思います。いったい、自分はどれだけ認められているのか。どれほどの市場価値があるのか。それを金で測るのだと思います。フィギュアスケートとなんら変わりはないわけです。
そして、ほとんどのひとが自分が誰だかわからないですし、自分で生きてゆく知恵を授かっておらず不安なので、少しでも多く金が欲しいと感じるのだと思います。しかも、そのときの自分にとって「ちょうどいい」エネルギー量(現代では金)というのがかならずにあり、それは、ひとと比べられるものでもないのですが、それが分からないから、少しでも多く持つことで安心を求めるのではないでしょうか。ホントは、10万円の暮らしで全然大丈夫なはずのひとでも、隣のひとが15万円持ってたらどうも自分のほうが劣っているような気がするのです。数字とは、そうやってひとに順位付けをするやっかいなものだと思います。
ちょっと思い出したので、補足です。こんなことしてたら、いつまでも風邪が治らないので(笑)ここまでにしておきます。おやすみなさい。
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